昭和42年11月3日 朝の御理解


 私もこの辺のところをどう説明して良いかまだ良くは分からんのですけれども、こりゃこう言うことだけは云えると言うこと。それはあの昔から申します言葉の中に、神は正直のこうべに神宿る。正直のこうべに神宿る。正直のこうべに神宿ると言うようなことを申しますね。正直であれば神様がそこに宿って下さる。そこに神様の働きを見せてくださる。まぁ言うならば正直な者は神様が守って下さると言うような事を申しますけれども、正直だから神様が宿って下さると言うことはないですね。正直であればね、神様が宿りなさるんだと信ずるところに神が宿るんです。あの人は世間で神様のような人じゃ、仏様のような人じゃというても、次々と難儀なことが起こってくるとどうしてあのような事が起きるのであろうかと言うような事が世間ではあろうがと、人が良いのと悪いのとは別物であり、信心しておかげを受けると言うことは別物だという風に理解しておられます。ここんところを教祖はいわゆる喝破しておられたと思うんですね。
 信心なせんで正直でさえいきゃよかがの。成る程それでもいいんです。有り難いことです。けどもそれでは神が宿らんのです。信心は拝まんでも参らんでもいいけれども、正直にしとればね神様が宿りなさるんだと確信でけたら然もそれは信心はなくてもそこに神様の働きを頂くでしょうね。問題はその信ずる事が出きることが信心しなければできんのです。これは例えばなら不正直者でもです、信心しておかげを受けると言うことは出来るのです。信心しておかげを受けるのは別物じゃと仰る。なら皆さんここにこうやって沢山お参りになっておられますけれども、みんなが立派な人とは云えない。嘘を言うたり言うならばあさましい心を持っておる人もいくらもあるのです。本当言うたらみんながそうなんです。それでも皆さんおかげを受けとられるでしょう。私達が頂いてお願いをしておかげを受け取られるでしょうが、正直者じゃないけれどもおかげは受けておる。だから信心しておかげを受けると言うことは別物じゃと。
 けれどもです、信心の結局救いと申しましょうかね、と言うのが心に安らぎを頂けると言うこと。心にいわゆる安心が頂けると言うこと。本当に自分自身が助かるとと言うことにあるのでございますから、その助かりが頂ける事が信じられる信心をしなければならないと言うことです。そうでしょうが。もう御用すりゃね、必ず、例えば沢山お金をお供えすりゃ沢山お金が儲かる。これを信じておる人のところには必ずそういうおかげが受けられますですよ。御用すりゃ助かると言うことを本当に信じておれば、御用すりゃ助かるです。けれどもあの人があげん御用しござる、あの人があんなにお供えしござるとに、どんどん儲かりござる、助かりござるからそれを真似しただけではおかげにならんです。それをそうと信じて信じきっとるです。
 私の母なんかは私共の子供の自分にお店のこげなところにもう真っ黒にもうすすでビガビガ光るような竹の筒がここに下げてございました。その竹の筒にはですその朝一番はじめのいわゆるニグチといいますかね。ニグチ一番んはじめに売れたお金ですね。お酒を売っとりましたが、お酒いっぱい飲みに来る人、まぁ当時十銭でしたが、一番はじめの十銭を入れるんです。それが神様へのお供えでした。木炭を売っとりましたが木炭一俵といや、一円二十銭の木炭が売れりゃ一円二十銭、八十銭の木炭が売れりゃ八十銭を入れる訳です。朝からお酒一本持ってきてくれと言ったような事もあります。それが上酒であれば上酒であるほどその当時でも一円五十銭くらいしておりましたが、いや今日はおかげ頂くばいちいよりました。確かにそれはもう間違いなくおかげ受けたんですね。そうと信じておるおるからなんです。余計お供えしたからおかげ頂いたのじゃない。余計お供えすれば余計おかげが受けられるんだと信じるところへ神がそこへ宿った訳です。
 けどもそれだけでは心の救いもなからなければ、助かりにもならないでしょうが。商売が繁盛すとるというだけでしょうが、お酒五勺下さいち言う、まぁ五銭んら、はぁ今日は商いはあんまりなかばいなと信じなけりゃならないでしょうが、そすと、五銭がたしかおかげがその日は受けられないと言うことになるから、それではね、実を言うたら信心の救いも助かりにもならんのです。いわゆる私が日頃いう目先目先のおかげでは人間の本当の助かりにはならないのだと。これは私それをそう信じておるから神様がそこに宿って下さるんです。こりゃもう絶対に間違いないです。毎日私は夕刊を見ます。夕刊の一番見出しに必ず私がその日頂かねばならないこと。いや私の心の状況、状態というものがもう必ずでてくるです。こりゃもう絶対です。私がそうだと信じておるからですね。神様がそこへ働きなさるのですよ。その新聞なら新聞を編集するときにです、例えば見出しですから、パッと人の目に付くような事を書くわけでしょうけれども、そう言うような事がそのそれを書く人の頭の中にです、ひとつインスピレーションですよね。霊感が働く、大坪総一郎の願いがそこにパッと入っていく訳なんです。ですから私がそこを見ると私の心の動きとかいろんな事が私だけしか分からないことも多いですけれども必ずあるです。私がそうだと信じておるからそこに神が宿るのです。だからそれだけならです、ひとつの指針とか歩かせて頂くひとつのこう矢印くらいにはなりましょうけれども、それが助かりになると言う事じゃないと言うこと。だから信心さしてもらいよればもう様々にそこんところを、今日私が申しますように、私も分かっていない。私も分からないけれども、ここまでは分かっておると言うことをお話しておるわけですからね。ようそこを説明できませんけれどもです、神様は世界中に宿ってござるとじゃろもんといやもうそれぎりですけれどもです、その中に分けて自分がこうと確信するところへ神が宿る。
 例えば難儀な問題が起きてくる。おかげ頂いたとそれが確信できるから、それがおかげになるのです。難儀が霊験になるのです。と言うて難が霊験になっただけでは人間の本当の助かりじゃないでしょうが、だからそのひとつひとつのことがです、みんな私共のものにならなきゃいけん。お供えもどんどん出来るごつならなきゃいけん。商売も繁盛さしてもらわなきゃならない。だから今私がずっと話して参りましたようにですたいね。はぁ今日は繁盛する、確信できれると言うことはおかげだ。ですからそうでしょうもん、お供えなさってからお供えし損じゃ、ああた馬鹿らしかじゃないですか。それをお供えしたら、お供えしただけ、がた以上のおかげを受けなければつまらんでしょうが、それにはそういうひとつの確信を持たなければつまらんでしょうが、それにはそういうひとつの確信をもたなきゃいけん。信ずる事ができなきゃダメなんだ。けれどもそれだけではです、人間の救いにも助かりにもならないと言うこと。私が今日云うておることをですそこに神が宿ると言うことなんです。だからここを私ようく説明出来ないのです。実際本当言うたら世界中の氏子を守って下さるのであり、もう宇宙全体に神がみなぎってござるのですから、特別そこだけこれは正しかという事はおかしいような表現ですけれども、事実はそうじゃないと言うことです。信ずるとこに神が宿られる事だけは間違いないです。
 だから正直のこうべに神宿るというただけでは、正直者でも貧乏したり、正直者でも難儀が続いたりしておると言う事実があるところをみるとですたり、教祖もそこをはっきりいわば、教祖もそこを喝破しておられるます。それだけじゃ神は宿らんのだと。正直にしておれば神が絶対に守って下さるんだ。絶対宿って下さるんだと確信するところに、神が宿られるのだと言うことですよね。そこんところは皆さん分からにゃいけません。だからもうそういう例を申しますときりがないですね。そこで例えば私は御霊様の前にあの菊の花を私が田代さんの丁度お発ち日ですね。一日の日にだれも生けるものがなかったけん、私が生けたんですけれども、まぁ何も私は分かりませんから、唯花に高低をつけてまぁ一本一本がそのどこからでもみえるように、言うならばと言うことを唯工夫しただけなんですけれども、どうでしょうね。あの花ががばっと一様の高さでいれられとったんじゃ、花そのものは同じでありましてもです、それじゃそのまぁ人並みと言うかどうか分からんけれども、私はあすこの前に座って御祈念する時にはぁむごう生けちゃるなと自分で思うんです。一本一本が生きとるなぁとこう思うのです。唯その高低をつけたと言うだけでもいかん。矢っ張りその花が一本一本生きなければダメ。生きておらなければ、ですからその生かすことをですね、生かすことを私共はみんな研究しなければならない。体得していかなければならないと言うこと。その時その時の事をです、そう信じられると言うことは、その事を生かすことなんだ。
 難儀なら難儀と言う問題を生かすすべと言うものを心得とかなければいけないと言うこと。必ずしもだれでも彼でも難儀を受ければその難儀がおかげになると言うことはないでしょうが。それを生かし得る人のみがおかげを頂くだけでしょう。そこで私共がですたいね、そういうすべてのものを生かす事ができれる心。これならば、絶対自分が救われる。助かる。私自身が助かるんだと言うことをです、信じれてそこに神が宿って下さると言うおかげを頂く。いわゆる信心の根本的な助かりと言うことにですね、おかげの頂けれる信心をせにゃいかんという事なんです。これならですね、商売繁盛もついとりゃ、健康のおかげもついとりゃ一切がついているんですよ。私はここ十日あまりもう肩がこって肩がこってもう痛いほどにこる。もう十二時まで奉仕ももう昼からすぐ久富先生にそれこそ一時間も一時間半も、もうそれこそ一生懸命に揉みほぐしてもらう。ちょっとはいいけれども、後は又夕べは繁雄さんと久富先生と二人で今度は肩を揉まれる。みんながご承知の通りでした。ところが、二、三日前あのマッサージをする人がお参りしてきたらですね、これがそのいわゆる揉んでくれたでもなからなきゃ、マッサージをしたくれた訳でもないのですよ。唯その基本とかそのこげな風にせんならんもんだと言うことを、もう短い時間ですから、ところがそれっきり肩のこりがなえたのがふしぎでしょうが、ははぁあのマッサージがそげんきいたとは決して思やしません。唯久富先生でも、繁雄さんでも毎晩私が肩をこらするかと思わんもんじゃから、たまがってしもた。あれだけこっておったのがこっていないということ。あのマッサージの人が本当にまぁちょっとマッサージの真似がたの事をしただけでその時を境に私が今肩をこらしていないと言うこと。これは私があることをその時に感じ、あることを信じたからですよ。それを皆さんおわかりにならんでしょうけれども、ははぁこれによってこの人も助かると言うこと。マッサージをしたその高松と言う人ですけれども、だからこの人のために私はここ何日間があんなにひどい肩こりだったなと言うことを私は確信したんです。この人を助けるために有り難いことだなぁ。私が一週間、十日痛い痛い言うくらいの事じゃないな。ここに人が一人助かると言うことなんだから、私それを本当に確信した。そこから私の肩こりはもう必要でなくなったきた。もう本当にね、実際いうたらもう嘘みたいな話なんですよ。けれども本当にあれだけの一生懸命にもう昼から晩までそのもんであった久富先生、繁雄さんであってはじめてそこんところが、分かる訳ですよ。こりゃほんなこてすらごつじゃなか、ほんなこつということがですたい、神様の働きちゃ条件にゃおよばん。人間の身体の上に働きのあるその微妙なことにゃ驚いてしまうと言うものを私の身体を通して感じなさることが出来るだろうと思うですね。
 それは私がそこにそうと確信するところにそこに神が宿られるからなんです。そこでその私がそういうなら肩のこりとか、金儲けとか健康とかその只今いろいろ申しましたそこだけに神様が宿られたのでは私共の本当の救いも助かりも、実はないのだとそこんところの一切が例えば花の一本一本を生かし得るところのというのは何かと言うとです、結局はです私はね、改まりさえすればおかげが受けられる、本気で研けばおかげが受けられる、もういよいよ限りなく美しゅうなることに極まったと確信することなんです。皆さんそれなんです。一生追いかけるのは、そこには私自身のもう真実助かりがあるのです。そこだけが治ったというおかげじゃないのです。これは私が改まりさえすれば、私が研きさえすれば、私がいよいよ本気で美しゅうさえなりゃおかげが受けられると確信することです。だから私が本気で改まる事にもう心を向けただけで、神様がここに宿って下さるから、おかげになるのです。心に神様がここに宿って下さるからおかげになるのです。心に神様が宿って下さるから、然も自分の心が研かれていき、自分の心が研かれていき、綺麗になってまぁいうならばもういよいよ自分というものがむなしゅうなっていく、心が研いて研いて、研ききっていく訳なんだ。そこに私の助かり、はぁこの調子でいきゃいよいよ助かられるなという確信も又出来てくる。これならばですね、一切がいや心が美しゅうなるのですから、一切を生かしていくことが出来るのです。その人を生かすことが出来る。この人も生かすことが出来る。この問題も生かすことが出来る。この難儀もおかげにしていくことに、生かすことが出来るということなんです。この汚い心がですね、自分のその改まろうとも研こうとも思わんでですよ、それを生かすことは出来ません。はぁ今日は一番はじめに高いもんが売れたから今日は商売が繁昌するぞと確信するところに確かに繁昌につながる、そこに神が宿るおかげが受けられるという事実もあるけれども、そのそういう部分的なものではなくてです、それも仰視されていいです、そういう手も使うといいですけれども、根本的なものは結局自分の心の上にあることなんですよ。だからそういう意味あいで正直の頭に神宿るというけれども、それは嘘だ。正直な頭に神が宿るということをです、もう正直にしたら確かにやどんなさるんだと確信したところに、神が宿るのである。限りなく自分が美しゅうさえなっていきゃ、神様が必ずおかげ下さるんだと、確信するところに限りなく美しゅうなる楽しみが生まれてくるわけです。そこに神が宿って下さるから、助かることも助かると同時にです、心がいよいよ限りなく美しゅうなっていくというそこにですね、私共の救いがあり、助かりがある。これならもう根本的に助かっていくことが出来るですね。
 ここんところは私まだ、本当に十分説明することは出来ません。この程度のの事は私、確信できます。確信しております。どうぞひとつ本気でです、限りなく美しゅうなることに精進さしてもらえば、為には本気で自分が改まりさえすれば、本気で自分がその事を通じて研きさえすればおかげが受けられるんだと確信できれる。そこに神に宿ってもらえれるおかげを頂いていくことがもう何よりものことであり、信心の救いの根本とでも申しましょうかは、そこにあるということが分かります。だから神様はね、生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にありということになっておるのでございます。一心に願わして頂くということは、私の心に和らぎ賀ぶ心を頂かして下されというて祈り願うこと以外にはないのだ。そこからです、おかげは和賀心にあるのだとこう仰っておられますですね。                         どうぞ